2015年12月28日月曜日

無彩色の黒は、無個性の色。

就活中の若者はひと目でそれと分かる。とくに女子は分かりやすい。理由はほぼ全員が黒の定番スーツを着ているからである。就職指導のマニュアルにも、そう書かれている場合もあるだろう。ただ、ファッション・コミュニケーションのルールからすると「無難な黒のスーツ」は、いちばん難しいアイテムともいえるのである。
 「黒」とひと言でいっても生地や染めかたによって実にさまざまな色合いがあるのだ。漆黒の黒もあれば、墨色のような黒、少しぼやけたような黒もある。黒のスーツを着た人が並んだとき上質のスーツか否かが分かりやすいのも、黒のスーツである。
 第3章でも述べたが心理学的に黒は何か隠したいときに使う色である。就職活動という場においては初対面の相手に長所・魅力をアピールしなければならない場で「隠ぺいの黒」を着ることは避けたほうがいいというのが私の持論である。企業の係員に「どこか、わかりにくい人だ」という印象を与えてしまいかねない。
 ただ「黒」を着るのは避けられないとすれば、上等の黒を着るべきであろう。就活は人生における大切な儀式であり、妥協する必要はない。就活という勝負に勝とうと思ったら、それなりの勝負服、いや「戦闘服」を着るべきだ。
 面接は、つねに一度きりの真剣勝負で与えられる時間はごく僅かだ。瞬間で相手に好印象を与えられなければ、次は無い。そのために大事なのは「3S」で「清潔・清楚・作法(マナー)」であることを覚えておいて欲しい。

あなた自身もプレゼンテーションのツールのひとつ

知り合いの広告代理店勤務の女性が次のようなことを言っていた。
「最近の女子は、プレゼンテーションのとき、いつも黒スーツのような気がする。それって、いかがなものか」。
就職活動でも黒スーツ、プレゼンテーションでも黒スーツ……。黒スーツはワーキングウーマンの免罪符になっているようだ。若い女性ほど、黒色に対する何かしらの信頼があるように見受けられる。ちょっとした会合に出るときにも黒のコーディネートが多い。若い女性どうしの集まりであるなら黒を着ていけばおしゃれに見えるということもあるのだろう。しかし、日本人でほんとうに黒が似あう人は意外に少ないことはあまり知られていないようだ。パーソナルカラーでいえば、ウインタータイプの人。このタイプなら黒でもじぶん自身の存在感が消えることは少ないはずである。だが、ほかのカラ―タイプ(スプリング、サマー、オータム)の人の場合は印象操作が難しくなる。
 プレゼンテーションのファッションのポイントは、頭を使うことである。プレゼンの内容を考えたうえでファッションを選択する必要がある。たとえば、私の場合、ファッションに関するプレゼンがほとんどなのでプレゼン内容に合わせた服を着用する。そうすれば、プレゼン中に「たとえば、今日、私が着ている服のような……」と話題にできる。プレゼンに臨むときはじぶんのファッションもビジネスツールのひとつとして考える。
 加えてこだわりの小物を持つのも有効である。何かひとつ、会議の席で身のまわりにじぶんらしさを映す小物を置く。私の場合はオレンジ色の小物にしている。オレンジ色のペンケース・名刺入れ・眼鏡ケースなどである。理由は、オレンジは私のマインドカラ―であるからだ。オレンジを持つことで私もパワーが得られ、相手に与える印象操作もしやすくなる。じぶんのマインドカラ―の小物をひとつ、用意することをお勧めする。ファイルやペンなどのステーショナリーグッズ、書類を出すビジネス用のバッグ、時計……。プレゼン中などに仕事相手が見るともなしに視界に入れているようにする。それだけでも、相手の無意識にあなたという人間のちょっとした特徴が刷り込まれているのだ。
 全体のトータルコーディネートとしては5色以上は使わないという配色のルールを守る。眼鏡やアクセサリーなどは、ゴールドやシルバーなどのメタル色を揃えておく。
 基本、じぶん自身もプレゼンテーションの一部であり、その場に存在する全てがコミュニケーションツールになることを忘れないでおこう。

2015年12月16日水曜日

ただ着ているだけのファッションは一方通行である

「あなたの顔以外、残りの9割は服なのだ」と言われて、どう思うであろうか? 「私はじぶんも相手も内面で評価する!」と息まく必要はない。これは単なる事実を言っている言葉なのだ。つまり、文明社会で暮らしている我々は、ふだんの生活において首から下は服や靴、小物で肌は覆われているはず、という意味である。そう考えたとき、「ファッションに興味はない」と言い切ってしまえば、自身が他人の目に映っている9割を「どうでもいいや」と言うことにもなるのだ。つまり、「ヒトからどう思われようと、かまわない」と言っているのも同じなのだ。孤独を好んで生きられる環境、たとえばどこにも属さない孤高のアーティストなどであれば、それも許されるだろう。ただし、学生であったり、会社勤めであったり、いろんなヒトと会わなければいけない職業などであれば、少しでもいい印象を与えたいと思うのではないだろうか。
 ヒトとのコミュニケ―ションは現代社会を生きる基本条件と言える。周囲から「こんな風に見られたい」と思う自身を、ファッションという非言語のツールで発信することは、充実した毎日を送るうえで重要な要素となる。それこそが「ファッション・コミュニケーション」なのである。そのためには、ただ単に「似あうから」「こんなテイストが好きだから」「流行りだから」という理由で服を選んでいた過去とは決別する必要がある。
 まず「なりたいじぶんが着る服」をしっかりとイメージして服をコーディネートすることだ。前述した「モデリング」や「条件づけ」を活用するのも有効だ。そして、「なりたい自分」は「ファストファッションを着た、どこにでもいる不特定多数の人間」、「雑踏に埋もれてしまい、だれの記憶にも残らない人間」ではないということを再認識しておく。
 「ファッション・コミュニケーション」は、じぶんが意識せずに発信しているのか、またはきちんとコントロールして発信しているのかによって周囲に与える影響や反応が変化する。流行に敏感になるよりも、自身を一度、じっくりと見つめ直すことが鍵となる。「どうなりたいのか」「どう見られたいのか」という命題をクリアにしておくべきである。もし、はっきりとした答えがでないときは、「モデリング」をしてみる。憧れの芸能人や有名人のファッションスタイルをとにかく模倣することから始めてみる。その場合、なるべく自身の容姿や全体のイメージが近い対象を選ぶとモデリングがスムーズである。

 自分が発信したいイメージに合ったファッションが選択できれば、次は実際に誰かと対面し、相手の反応をじっくりと観察してみる。好感触が得られれば、そのファッションはきちんと意図を相手に伝えてくれているのである。期待しない反応であれば、ファッションの手直しが必要ということである。何度か繰り返すことで進むべき道が見えてくるはずだ。ファッションでのコミュニケーションも楽しくなることだろう。

2015年12月9日水曜日

ブランドパワーの本質とは

ある心理学の実験がある。対処は3才から6才の子ども43人。彼らに3次元コピー機を「どんなモノでもコピーできるんだよ」と説明し、実際に見本のオモチャのコピーをして見せた。それを見た子どもたちの反応が面白い。コピーのおもちゃに大興奮した彼らは、オリジナルのおもちゃよりコピーに対して喜ぶ傾向にあったそうだ。ところが、次に同じ子どもたちに「きみたちの大事なおもちゃを同じようにコピーしてあげよう」といったとき、ほとんどの子どもがそれを拒否するという結果がでたそうだ。オリジナルだからこそ、価値がある。愛着があるし、じぶんの好みにしっくりくる。手になじむ……。オリジナルのものを手にしたときに得られる高揚感を人は好むのである。
 ファッションについても同じことがいえるのではないだろうか。好きなブランドのアイテムを手にしたときの幸福感は格別である。もし、それがコピー商品であったら? デザイン的な相違に差がなかったとしてもオリジナルが人に与える審理的作用は望めないであろう。「コピー商品をさも本物のように偽って見せる」というような使いかたをすれば、卑屈な体験にもなることだろう。
 一流ブランド品にはデザイナーや職人のこだわりやプライドという背景がある。生地や皮の色、厚さ、縫製の仕方など隅ずみまで計算され、唯一無二のものだという作り手の自信が存在意義を高めている。そこで提案したいのが「じぶんに自信がないときほど、一流ブランドの力を借りてもいいのだ」ということである。つまり「虎の威を借る」のである。たとえば、それを実行しているのが液晶画面の向こう側にいる芸能人や有名人なのである。彼らは競争の激しい世界で少しでもじぶんの存在価値を高めてライバルに勝つために、より上質のブランドの力を借りているのである。この方法は、かなり有効である。ブランドによる条件づけで、仮のパワーを得てじぶんを大きく見せる。最初は仮のパワーでも、やがてはじぶんの栄養になり、じぶんを変化させるきっかけ作りにもなるはずだ。

2015年12月2日水曜日

なりたいじぶんになるために~よりよく生きるためのファッションとは〜

★じぶん探しとファストファッション

人は何のために、何を目的として生きているのだろうか。
たとえば、「社会に貢献するため」、もしくは「子孫を残すため」かもしれない。または「日々、何かを学んで成長するため」という人もいるだろう。人によって、その人生観は実に様々であろうし、この命題の答えを模索し続けることこそ、生きるということだとも言える。
 「何のために生きるか」は、心理学や哲学における不変のテーマのひとつでもある。なぜか。つまり、じぶんの人生の目的を明確に持っている人はごく僅かなのである。では、なぜ人という生き物はこれほどじぶん自身のことが分かっていないのだろうか。
 視点を変えて、ここで「モラトリアム」という心理学用語について考えてみよう。語源はラテン語の「mora(遅延)」「morari(遅延する)」で、もともとは経済学用語の「支払猶予期間」のことだったそうだ。心理学者エリク・H・エリクソンが「青年が大人になるまでに必要とする猶予期間」という意味で心理学に導入したのである。
 青年期、「じぶんはどうやって生きていくのか」「じぶんがほんとうにやりたいことは何か」などを自身に問いかけ、悩むことで自己のアイデンティティーを確立していく心の動きがある。そのなかで得られた「これこそじぶんが求める人生の目的だ」という実感を「自己同一性=セルフ・アイデンティティー」と言う。つまり、思春期から人は「何のために生まれてきた?」「将来、どんな仕事をしたらいい?」「どうして、友だちのAさんと私はこんなに違うのか?」といったことを考えはじめ、悩むのであるが、これは大人になるための通過儀礼のひとつである。エリクソン自身が生涯、じぶんのアイデンティティーの確立に悩んだことから「モラトリアム」や「自己同一性」の概念を生みだしたと言われている。少し話は逸れるが、エリクソンについて、少し解説をしておくと、彼は母親が初婚のときに不倫をしてできた子どもだったと言われている。彼の母親は、生きている間にエリクソンの出生の真実を告げることはなかったらしい。そのため、母の再婚相手(エリクソンにとっての義理の父親)を本当の父親だと誤解したエリクソンが父とじぶんがあまりにも似ていないことで、じぶんのルーツへの疑問に生涯、悩むこととなった。
 エリクソンのような複雑な生いたちは稀なケースだとしても現代人は、つねにじぶん探しをする生き物という印象が強い。慶応大学の小此木教授も「本来は青年期だけの、つまりモラトリアム特有の悩みに対して大人になっても答えを探し続けていることが多くなった」と指摘している。教授の執筆による「モラトリアム人間」なる本の出版は1970年代のことで当時、かなり話題になった。
 なぜ、大人になりきれない人間が多いのかについては以下のように考察する。いろいろと頭のなかでシミュレーションはするものの、実際に行動に移すことが少ないため、現実での経験値が不足しているためではないだろうか。
 では、なぜ、行動することができないのか。その理由のひとつに「リスクを負いたくない」という恐れが考えられる。リスクを冒して失敗するのを回避したいがため、個の世界にひきこもっているのではないか。
 現代の20~30代を指して「低温世代」という言葉がある。就職氷河期にやっとの思いで就職した世代であり、たとえば本心では転職を希望する事態になったとしても、再度大変な思いをして仕事を探さないといけないという恐怖から現状維持に甘んじてしまいがちなのが特徴とされる。彼らの多くは競争を好まず、身の丈にあった「ほどほどの幸福」で満足している。そんな彼らの選択肢の少なさは、実体験の少なさに起因しているのではないだろうか。これまでの人生のなかで何かに挑戦した経験が少なければ、おのずと成功体験も限られる。成功した達成感や充実感をあまり得た経験がなければ、たった一度の失敗でも心理的ダメージは大きいだろう。「また、あんな思いをするのはイヤだ……」という思いから、未来への期待よりも現状の平和を維持する道を選んでしまうのである。
 失敗することはそれほど悪いことではない、ということを若者達に分かりやすく伝えることが、今の世の中には必要なのであろう。失敗体験を経て人は少しずつ強くなれる。折れにくい心が育めるのである。苦しみを経験するたびにじぶんがどんな人間が少しずつわかっていく。モラトリアムに勇気を持って向き合うことで自己同一性を確立し、大人としての内面の強さが育まれるのである。
 近年、巷で市民権を得ているファストファッション。ファストファッション(fast fashion)とは、トレンドを採り入れた低価格の衣料を短いサイクルで大量生産・販売するファッションブランドやその業態を指す(出典元:ウィキペディア)。早くて安くておいしいファストフードにちなんだ造語で、2000年代半ばころから認知されるようになったとされる。このファストファッションの台頭がファッションと人との関わり方にモラトリアム現象を発生させているのではないか、と筆者は考察する。
 かつて日本のファッション業界において製造・流通・販売はそれぞれ独立したものだった。その一連の流れを1社で行うことにより、スピーディーで低コストゆえの低価格商品が販売できるようになったのがファストファッションである。バブル崩壊後、デフレが進んだ日本において、まさに時代の申し子のようなファッションであった。「洋服代をできるだけ抑えたい。でも、トレンドも意識したい」という時代のニーズを捉え、近年の急成長になった。
 ファストファッションは、手ごろな価格・気軽なファッションという魅力がある反面、とかく着捨てファッションになりがちである。その要因は低価格ゆえの耐久性に欠けた素材・トレンドを反映した一過性のデザインの服、などが挙げられる。
 では、ファストファッションが時代を席捲する前の流行は、どうであったか? いわゆるDCブランドのブームも含めたモード系のファッションであった。モード(mode)とは、もともとフランス語で流行やファッションを意味する。モード系ファッションとは、コレクションで発表される最新のファッションを指し、特徴はデザイナーやブランドのオリジナリティやクリエイティビティを反映している点であろう。かつてのDCブランドブームの時代において、ファッションとは「いかにヒトと違う装いをするか」がテーマであった。なぜなら、モード系のブランドは、流行を追うのではなく、作りだすことが命題であったからだ。素材や縫製などにこだわった上質のアイテムはどれも高価格であり、一部の富裕層以外、ファッションに好感度な人間は選択を重ねて購入する必要があった。欲しい服をある程度、大量購入できるファストファッションとの大きな相違点であろう。
 ファストファッションとモード系ファッションのどちらを選択するかは、個人のファッションに対する捉え方や費用対効果によって様々であろう。ではあるが、ファストファッションで満足しているとファッションに対する感性が磨かれることはないのである。
 たとえば、ファストフードばかり食べている人間について考えてみよう。お世辞にも健康的とは言えない。もし成長期の子どもであれば栄養も不足しがちである。ファッションでも同じことが言える。ファストファッションばかりで満足していた場合、おしゃれに関する素地が育まれにくくなり、上質に対する感性も磨かれる機会も無くなるのである。
 じぶんに似合うファッションを探している間はいわば、ファッション・モラトリアム時代といえよう。その期間、ファストファッションはもちろん、多様なファッションを試すという冒険心も必要なのである。ファッションはいろいろなシーンや対面する相手によって変化する必要がある。さまざまな経験を踏まえてこそ「この場面には、このファッションである」というノウハウを得ることが可能となり、その後の選択も容易になる。
 「じぶんはじぶん以外の何者でもない」という意識が何よりも重要である。すべての人は世界にただ一人のユニークな存在であってしかるべきなのだ。だれもがすぐ手にできるお手軽ファッションはユニークな存在を「十把一絡げ」の存在として語ってしまうかもしれないということを認識すれば、ファッションと人とのつきあい方は変わっていくはずである。